「良子さん、昨晩は眠れましたか?」
山下良子さん(仮名)83歳女性。
脳梗塞で、1週間前に入院したが、幸い症状は消失し、そろそろ退院間近。
笑顔がチャーミングな女性。
私は、せっかく長崎で医師をしているので、戦争当時の話を、とりわけ原爆投下当時の話を、時間と、本人の症状、が許せる範囲で聞くようにしている。
終戦から74年。
もうじき、この世代の方々もいなくなる。
もちろん、本人に断りを入れてから当時の話を聞くようにしているが、案外、拒否されることはない。
多くの方が、
「話そうとは思っていたんだけど、自分から話すようなことでもないし」
と言った返答がほとんどである。
今回の話も、良子さんは、やはり自分の子供にはほとんどしていなかった。
また、
「誰にも話していないんだけど」
という内容まで聞かせていただいた。
私は、単なる一医師なので、作家や記者ではない。
突っ込んで聞けないことが多々あった。
それでも、平和な時代だからこそ、そして、世界の情勢が目まぐるしく変わる、こんな時代だからこそ、
私たちは、戦中戦後の、あの時の話を知っておくべきなのかもしれない、と思います。
少なくとも、私は自分の子供には伝えたい。
話の最後に、良子さんが漏らした一言は、当時を経験した彼女だからこその言葉だと思いました。
「もし、総理大臣が「戦争をする」と言ったら、真っ先に(首相のもとに)駆けつけて、乗り込んで、やめさせます」
--------------------------------------------------------------------
良子さんの話
1945年、おそらく満州の北の方に住んでいました。
満州に移住したのは、他の家族と同様、父の仕事の為でした。
父は当時45歳で、銀行の支店長をしてました。
母は移住して一年目に病気をして、病弱な人でした。
私は、1945年の終戦前に先に帰国して、長崎に戻っていました。
自分では覚えていないのですが、いとこが言うには、私が「早く帰りたい」と言ったから、らしいです。
私は、長崎で、
両親と妹と弟は満州で
終戦を迎えました。
父は帰国の途中で、ロシアの人に捕まり、抑留されました。
母と妹、弟はそのことは知らず、先に帰国したものと思っていたそうです。
母親と妹と弟は3人で帰国することになりました。
しかし、帰国の途中、妹と弟は死にました。
妹の最後の言葉は
「お母さん、私が死んでも家に帰れる?」
だったそうです。
母親は一人で長崎に戻りました。
父親の話は、抑留先から帰ってきた人から聞きました。
抑留地で死んだそうです。
一番可愛そうに思います。
抑留地では、多くの人が凍死したそうです。
夜中にトイレをしたくなっても、寒くて動けないので、そのまま失禁し、朝には凍ってしまって、それで死ぬことがあったそうです。
死んで、埋めてあげようと思っても、土が凍っているので、浅くしか掘れず、なんとか埋めても、春には溶けて、野犬が食べに来ていたそうです。
また、帰国した人に話を聞くと、共産主義の思想教育を受けて、洗脳された人も少なからずいたて大変だったと言っていました。
政府による、シベリア抑留日本人の墓地を訪ねる旅の企画(※)があり、すぐに参加を表明しました。
※詳細は調べていません。
しかし、その頃私はすでに心臓が悪くなっていたので、主治医の先生に
「ごめんけど、診断書は書けない(海外への長期旅行をできるような状態ではない)」
と言われ、その旅に参加することは出来ませんでした。
帰国後、当時は、私は自分のことを不幸だと思っていましたが、最近では幸せだったと思います。
父の妹夫婦の養子に入り、すごくかわいがってもらいました。
短大まで卒業させてもらいました。
血はつながっていないですが、おばの夫には本当に感謝しています。
母親は、可愛そうでした。帰国後、夫の家族と折り合いがつかず、他の男性と結婚させられました。沢山家の仕事をしていました。
母は晩年「さびしい、さびしい」と言って、頻繁に私に連絡をしていました。
入退院を繰り返し、亡くなりました。
最近、私が、墓参りをできなくなってきたので、改葬をしました。
もちろん、墓の中は、ほとんど空っぽで、小さな箱があるだけでした。
山下良子さん(仮名)83歳女性。
脳梗塞で、1週間前に入院したが、幸い症状は消失し、そろそろ退院間近。
笑顔がチャーミングな女性。
私は、せっかく長崎で医師をしているので、戦争当時の話を、とりわけ原爆投下当時の話を、時間と、本人の症状、が許せる範囲で聞くようにしている。
終戦から74年。
もうじき、この世代の方々もいなくなる。
もちろん、本人に断りを入れてから当時の話を聞くようにしているが、案外、拒否されることはない。
多くの方が、
「話そうとは思っていたんだけど、自分から話すようなことでもないし」
と言った返答がほとんどである。
今回の話も、良子さんは、やはり自分の子供にはほとんどしていなかった。
また、
「誰にも話していないんだけど」
という内容まで聞かせていただいた。
私は、単なる一医師なので、作家や記者ではない。
突っ込んで聞けないことが多々あった。
それでも、平和な時代だからこそ、そして、世界の情勢が目まぐるしく変わる、こんな時代だからこそ、
私たちは、戦中戦後の、あの時の話を知っておくべきなのかもしれない、と思います。
少なくとも、私は自分の子供には伝えたい。
話の最後に、良子さんが漏らした一言は、当時を経験した彼女だからこその言葉だと思いました。
「もし、総理大臣が「戦争をする」と言ったら、真っ先に(首相のもとに)駆けつけて、乗り込んで、やめさせます」
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良子さんの話
1945年、おそらく満州の北の方に住んでいました。
満州に移住したのは、他の家族と同様、父の仕事の為でした。
父は当時45歳で、銀行の支店長をしてました。
母は移住して一年目に病気をして、病弱な人でした。
私は、1945年の終戦前に先に帰国して、長崎に戻っていました。
自分では覚えていないのですが、いとこが言うには、私が「早く帰りたい」と言ったから、らしいです。
私は、長崎で、
両親と妹と弟は満州で
終戦を迎えました。
父は帰国の途中で、ロシアの人に捕まり、抑留されました。
母と妹、弟はそのことは知らず、先に帰国したものと思っていたそうです。
母親と妹と弟は3人で帰国することになりました。
しかし、帰国の途中、妹と弟は死にました。
妹の最後の言葉は
「お母さん、私が死んでも家に帰れる?」
だったそうです。
母親は一人で長崎に戻りました。
父親の話は、抑留先から帰ってきた人から聞きました。
抑留地で死んだそうです。
一番可愛そうに思います。
抑留地では、多くの人が凍死したそうです。
夜中にトイレをしたくなっても、寒くて動けないので、そのまま失禁し、朝には凍ってしまって、それで死ぬことがあったそうです。
死んで、埋めてあげようと思っても、土が凍っているので、浅くしか掘れず、なんとか埋めても、春には溶けて、野犬が食べに来ていたそうです。
また、帰国した人に話を聞くと、共産主義の思想教育を受けて、洗脳された人も少なからずいたて大変だったと言っていました。
政府による、シベリア抑留日本人の墓地を訪ねる旅の企画(※)があり、すぐに参加を表明しました。
※詳細は調べていません。
しかし、その頃私はすでに心臓が悪くなっていたので、主治医の先生に
「ごめんけど、診断書は書けない(海外への長期旅行をできるような状態ではない)」
と言われ、その旅に参加することは出来ませんでした。
帰国後、当時は、私は自分のことを不幸だと思っていましたが、最近では幸せだったと思います。
父の妹夫婦の養子に入り、すごくかわいがってもらいました。
短大まで卒業させてもらいました。
血はつながっていないですが、おばの夫には本当に感謝しています。
母親は、可愛そうでした。帰国後、夫の家族と折り合いがつかず、他の男性と結婚させられました。沢山家の仕事をしていました。
母は晩年「さびしい、さびしい」と言って、頻繁に私に連絡をしていました。
入退院を繰り返し、亡くなりました。
最近、私が、墓参りをできなくなってきたので、改葬をしました。
もちろん、墓の中は、ほとんど空っぽで、小さな箱があるだけでした。
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