今年の原爆の日はコロナウイルスの影響で、平和祈念式典は一般参加者なしで行われました。
原爆投下、つまり終戦から75年経過し、その日を経験した方が徐々に少なくなっていきます。
私達のもとへ入院される方はご高齢の方が多いので、時々気がけて、
原爆の日のこと
戦争当時のこと
を聞くようにしています。
その際に、いつも、少し驚くのは、
多くの方が、自分の当時のことを、子供や孫に話してはいない、ということです。
今回、話を聞いた女性も、これまで話したことは、ほとんどないとのことでした。
「自分の記憶が、いろいろな情報で、変わっている可能性があるから」
とおっしゃっていました。
確かに、人の記憶ほど、信用ならないものはありません。
正しいことは多いですが、細部は違うことは日常茶飯事だし、
この方がおっしゃるとおり、その後の経験や情報で、記憶が書き換わることはよく知られている事実です。
ただ、本当にそれが理由なのかどうかはわかりません。
当時15歳で、女子挺身隊として働いていたそうです。
職場は爆心地から3kmぐらい。
おそらく原爆による熱線で、近くに積まれていた材木が燃えいて、その脇を、火を避けながら歩いて、5kmぐらいの同じ職場の人の家に一晩泊まったそうです。
翌日、爆心地から1km程度離れた山の斜面にある家に、浦上川を越えて帰宅されました。
浦上川には、焼けただれた人や真っ黒になった人、生きている人、生きていないと思われる人、がたくさんいたそうです。
小学校から原爆のことを聞いてきた長崎市民は、すぐに想像できる光景です。
絵や文章、作成された映像、
で、これまで何度となく目にしてきました。
その光景は、
「こわい」「原爆はひどい」「かわいそう」
などネガティブな感情とセットで心に浮かんできます。
しかし、今回話を聞いた女性は
「何も感じなかった」
とおっしゃっていました。
「自分が生きるのに一生懸命だったから、それどころじゃなかった」
自宅に戻ると家族がいて、当日帰ってこなかったので、「死んでいると思っていた」、と言われたそうです。
一方で、当時の怖かった記憶は、
「空襲警報の音」と「爆弾が落下して爆発する音」
だったそうです。
当時、空襲警報がなり、爆弾が落ちる、ということは
切迫した命に関わる危機
として、ありありと実感していた、ということだと思います。
今でも、
台風のときの風の音には恐怖感を感じる。
「ヒュー」
という音は爆弾の落下するときの音によく似ている、と。
人の記憶、感情、の形成は単純ではありません。
原爆当時は、その光景があまりにも想像を超えていて、感情形成がストップしていたのかもしれません。
一方、焼夷弾で、街が焼け壊れる、人の命が奪われるということは、何度も経験した光景であり、身に起こりえる危険であると認識していたのでしょう。
私達は、どちらも、同じネガティブな感情にカテゴライズされるわけですが、
当時を経験した人には、もしかすると、別の感情として記憶形成されているのかもしれません。
この記憶の違いが、
当時を経験した人が、原爆の経験をあまり話していないことと関連するのかもしれないなぁと思いました。
あまり感情が伴っていない記憶なので、
どう説明したらいいかわからない、
特別な私の経験ではない。すでに他の人、他の媒体で、繰り返し描写されている。
だから話していない、かもしれない。
しかし、その当時の経験者から話を聞くことは、未来のために大切なことで、
それはもう、当然です。
特に、これまで話をしてこなかった方から聞くことが重要かもしれません。
時間はあまり多くはありません。
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