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8月9日は長崎原爆の日。その記憶について

 今年の原爆の日はコロナウイルスの影響で、平和祈念式典は一般参加者なしで行われました。 原爆投下、つまり終戦から75年経過し、その日を経験した方が徐々に少なくなっていきます。 私達のもとへ入院される方はご高齢の方が多いので、時々気がけて、 原爆の日のこと 戦争当時のこと を聞くようにしています。 その際に、いつも、少し驚くのは、 多くの方が、自分の当時のことを、子供や孫に話してはいない、ということです。 今回、話を聞いた女性も、これまで話したことは、ほとんどないとのことでした。 「自分の記憶が、いろいろな情報で、変わっている可能性があるから」 とおっしゃっていました。 確かに、人の記憶ほど、信用ならないものはありません。 正しいことは多いですが、細部は違うことは日常茶飯事だし、 この方がおっしゃるとおり、その後の経験や情報で、記憶が書き換わることはよく知られている事実です。 ただ、本当にそれが理由なのかどうかはわかりません。 当時15歳で、女子挺身隊として働いていたそうです。 職場は爆心地から3kmぐらい。 おそらく原爆による熱線で、近くに積まれていた材木が燃えいて、その脇を、火を避けながら歩いて、5kmぐらいの同じ職場の人の家に一晩泊まったそうです。 翌日、爆心地から1km程度離れた山の斜面にある家に、浦上川を越えて帰宅されました。 浦上川には、焼けただれた人や真っ黒になった人、生きている人、生きていないと思われる人、がたくさんいたそうです。 小学校から原爆のことを聞いてきた長崎市民は、すぐに想像できる光景です。 絵や文章、作成された映像、 で、これまで何度となく目にしてきました。 その光景は、 「こわい」「原爆はひどい」「かわいそう」 などネガティブな感情とセットで心に浮かんできます。 しかし、今回話を聞いた女性は 「何も感じなかった」 とおっしゃっていました。 「自分が生きるのに一生懸命だったから、それどころじゃなかった」 自宅に戻ると家族がいて、当日帰ってこなかったので、「死んでいると思っていた」、と言われたそうです。 一方で、当時の怖かった記憶は、 「空襲警報の音」と「爆弾が落下して爆発する音」 だったそうです。 当時、空襲警報がなり、爆弾が落ちる、ということは 切迫した命に関わる危機 として、ありありと実感していた、ということだと思います。 今でも、 台